努力は報われるか分からない

羽生善治「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。
報われないかもしれない所で、同じ情熱、気力、モチベーションを持って継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

この言葉が好きだ。

逆に言うと「努力すれば必ず報われる」という言葉が嫌いである。

努力が必ず報われる論の代表はたぶんこれ。

王貞治:努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。


まぁ、王氏の言わんととすることは分からんでもない。

でも私はやっぱり努力が報われるのは、絶対ではないと思う。

理由は2つ。一つは努力にもいろいろあって、間違った努力ってのも絶対あると思う。
間違った方向に努力したって期待した成果につながらない。
例えば「西から昇る朝日」を探そうとしても見つからない。どれだけ頑張っても、見つからないだろう。それは努力が足りないから見つからないのではない。

それに、運とかめぐりあわせっていうのもある。
例えば短距離走で二人とも努力して走ったとしても、勝てるのはどっちか一人だ。負けたほうは努力が足りなかったというべきなのだろうか。更にもしも、短距離走で競争相手が存在することを知らずに走って負けたら、それは努力が足りなかった言っていいのか。またその逆に、相手がとんでもなく怠け者で、それに勝てたら努力したと言っていいのか。

結局、努力は必ずしも報われないし、時には運次第ということもあると考えるのが自然だと思う。
と考えるのが妥当だ。

ここで言いたいのは、「努力なんて実か確実だから、頑張るのが無駄だよ」と言いたいのではなくて、「成功していない人=努力が足りない人」ではないということが言いたい。
「成功していない人」には「努力が足りない人」は勿論含まれるけれど、「努力したけど成功しなかった人」も含まれていると言いたい。


まぁ、前述の通り「努力は必ず報われる」より「努力は必ずしも報われない」のほうが易しい表現だけど・・・

そこで一方厳しいのが羽生善治の言葉ってわけよ。

努力は必ずしも報われないけど、それでも頑張るってやっぱ難しいぜ…って話。

ご褒美がもらえないかもしれないと分かっても、頑張る。
無駄かもしれないと分かっても、それでも頑張る。
それってやっぱり誰にでも難しいことだし、それができることが、まず才能だと言っている。

これは努力の難しさと価値をうまく表現していると思う。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする