家を買うべきか憂鬱(1)

ふと気づくといい歳

私も気づいたら30代も後半に差し掛かってしまった。

私の人生は順風満帆という訳では無かったと思うけれど、今は客観的には今上手く言っていると言っていいんじゃないかと思う。

それなりに大きい会社で正社員として働き、それなりの権限と自由、リスペクトを得ている。
同年代の人よりたくさん稼いでいる。資産もそれなりにある。
結婚していて、妻は健康で正社員として働きに出ている。
家は賃貸だが広くて、液にも会社にも近くて快適だ。
趣味に使うお金もそこまで困らない。
読みたい本は好きなだけ買えるし、会社には前から乗ってみたかったオープンカーで通勤している。

なのにまぁ、ここのところ私の気分はどん底だ。

一つは体の不調、もう一つは時間の無さだ。

体の不調

体の不調は大きく2つだ。

1つは忘れたころに来る片頭痛。ポケモンのコダックが患っているあれだ。 ホント笑い事じゃないくらい頭が痛くなる。幸か不幸か私も典型的な片頭痛のようで、片頭痛の前兆が起こる。前兆のお陰で頭痛薬を飲めば、「頭が痛くて何もしたくない」程度の頭痛に収まる。

でもたまたま頭痛薬が手元に無かったり、或いは前兆が寝ている最中に起こって、目が覚めたら頭痛スタートだったりすると、正直死にたいという頭痛に襲われる。 もっとも、いくら凄まじい頭痛だとしても、半日、そう半日耐えればとりあえず収まる。それが分かっているから、死ぬつもりはない。ただ、歳をとって病気が進行して頭痛の時間が不定になったり、或いはホームレスになるなどして痛み止めが手に入らなくなったり、痛み止めが効かなくなったら・・・という恐怖はある。

2つ目はトイレに行きたくなる病だ。

ちょっと近所に出かけるだけでも、トイレが我慢できなくなるんじゃないかと気が気じゃない。 たぶん精神的な作用でトイレが近くなるんだと思う。

電車も乗りたくないし、長距離ドライブも正直なところしたくない。妻は旅行が趣味だから、なるべく旅行に連れて行ってやりたいけれど、旅行は長時間の移動が伴うから・・・正直辛い。

この前もディズニーランドに連れいていったけれど、心理的にはかなりこたえた。やっぱり朝一ゲリピーになるし、ランド内はトイレが多いとはいえどこにでもあるわけではない。何より、アトラクションに並んでいる間は基本的にトイレに行けないし、アトラクションの最中もと考えるときつかった。

これはまぁストレス性のものなんだろうけど、ストレスがストレスを呼ぶんだよなぁ。ぶっちゃけ酷くなったら、今の仕事を続けるのにも差し支えるかもしれないという心配もある。

時間が無い

時間のほうは複雑だ・・・こっちはミクロな面とマクロな面で時間が足りない。

仕事は一見うまくいっているように見えるかもしれないが、裁量が大きくなったということは、それだけ結果を出さなくてはいけない。 何千万単位で予算を振ってくれるけれど、そのお金が将来的に何倍にもなって返ってくるような新製品を作らなくちゃならない。そのアイディアがもうネタ切れになりつつある。 「作ったら儲かりそうなものが無いんで、予算不要ですわ。別のものに投資してください。」という訳には行かないのが開発で、待ったなしなのだ。経済活度とはそういうもんだ。

また、職場内で「凄いやつだ」というイメージを作ることができたが、これは単なる異世界転生ものみたいなものだ。前の職場・学校・趣味の集い・・・そういう別世界では当たり前の技術/テクニックを、私は今の職場という閉じた別世界に持ってきただけなのだ。
今の職場には同じことができる人が居ないし、全く新しい切り口の技術に見えるから、まるで魔法使いのように祭り上げられているが、別の世界では私の技術など中の下である。

その中の下の技術ですら、持ってきたものは大体使ってしまった。こっから先は私自身の実力で戦っていくか、合間を見て別世界に行って新しいものを仕入れてくるしかない。

私も様々な問題を抱えた人間だ・・・前述のように体の問題もあるし、性格的にも褒められたものではない。我慢もできない。だから特別扱いをしてもらってやっと人より良い成果が挙げられている。
だから成果を挙げ続けないと特権階級をはく奪されて役立たずに落ちてしまう。

つまりなんというか、いま上手くいっているのはバランスの上に成り立っているというか、自転車操業みたいなもんなのだ。

これを続けるための余裕、時間が・・・欲しい。

ゲームに費やす時間とゲームの毒

ただ、時間というのは限りがあるから、基本的には効率を上げる/無駄を省くしかない。 効率を上げるための取り組みとして、ロボット掃除機やドラム式洗濯乾燥機、食器洗い機を取り入れてきたが・・・この辺がそろそろ限界だ。

無駄を省く・・・となると厄介だ。例えば今の私の無駄はマインクラフトだな。 ゲームというのは悪い物ではない。気晴らしにもなるし、場合によってはゲームからインスピレーションを得ることもあるし、想像力/理解力/戦術力を鍛えてくれる。社交上の話題としても有効だ。

ただ、射幸心の虜・・・言い換えるとパチンカスになってしまう危険性もある。 ゲームというのは、自分の起こしたアクションに対して比較的短い期間で答えが返ってくる。成功にしろ失敗にしろ。だから何も考えずに何回も繰り返すと成功する場合がある。すると何も考えずに繰り返した失敗の数だけ、その成功が貴重なもの思え、幸福感が湧く。

原理的には赤ん坊がオモチャに触って音が鳴って喜んでいるのと一緒だ。大人になるとそこまで馬鹿じゃないから、オモチャに触って音が鳴っても喜ばない。ところがクイズだとかパズル、或いはハクスラといったゲームという形に擬態されると、コロッとはまってしまう。
整理してみれば赤ちゃんがオモチャに触って音が鳴って喜んでいるのと同じレベルのゲームなんだけど、上手いゲームほどあたかも自分が考えているかのように錯覚させてくる。得られた良い結果が、自分の思考や努力の賜物であるかのように思わせてくる。実際には殆ど運みたいなもんでも。

先に挙げたゲームの効能、考えたり/計算したり/計画したりといった思考力のスポーツとしての効能を得るだとか、自分の見識を広げるといった何らかのメリットも無いのに、やり続けてしまう・・・ただ時間だけを浪費する遊び方をしてしまう。

マイクラはゲームの中でも教育にも用いられるくらい、効能のあるゲームではあるのだが・・・その一方で、ゲームの進行に必要な”鉱石”を集める必要があって、その一番手っ取り早い方法が「掘る」って方法なのが危ない。単純に掘るってのは前述の通り「射幸心の虜」を生む行為の原型である。頭を使わず、単純作業を繰り返し、偶然当たりが出ると嬉しい。もっと当たりが欲しい。こうなってしまうと、赤ん坊と一緒である。

遊ぶにしても「効率よくやるには」「面白くやるには」を考えて遊ぶ必要があって、考えるのが面倒になったらもうゲームは一旦やめるべきだ・・・。ところが、単純作業ってのは中毒性があって、やらないといけないことが有るとき、疲れている時、ストレスで潰れそうな時ほどやりたくなっちゃうんだよなぁ。それが一種のストレス解消であることは有るのだけれども、減るストレスより間接的に状況を悪化させて生むストレスのほうが大きかったりする。でも分かってても辞められない。

自分の場合、何でこういうのにハマっちゃうかっていうかっていうと、モノづくりへの代償行為なのかなって気もする。いま何か作ろうと思うと、そこに至るまでの障害が色々ある。マンションだと音がでるのは夜中できないとか・・・ 作業机とか機材の棚なんかを、作業しやすいように効率的に作りたいけど、そのための材料を運び込んだり、日中に音に気を付けて工作したりとか、そういう前段階を超えるのがシンドイ。

だから、言い訳かも知れないけど作業に没頭できる設備やスペースがあれば、もっと有意義なことにとりくめるんじゃないかなっていう淡い期待がある。

そこでそろそろ家を買おうかと思ったわけだが・・・

(つづく)

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